(聞き手)
発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。
(菊田様)
私は現在、市民経済部市民課におりますが、発災当時は市民経済部商工観光課に所属していました。発災直後は、4階の商工観光課内におりました。最初の地震の時、隣の管財課にテレビがありまして、そこに緊急地震速報が流れてきたのです。それを見て驚いた後に揺れが始まり、急いで立ち上がりました。後ろにちょうど食器棚があり、揺れ始めてから食器や物が落ちてきました。窓から見える裏手の丘をずっと見ていたのですが、アカマツの木が左右にものすごく揺れていました。
発災当時、私は新田中班という班の現地班長をしていました。多賀城市の職員は班に分かれて、班ごとに地区のパトロールや
避難所の運営などを行うことになっているのです。
新田中班は市役所周辺を巡回していました。市道の回りの崖崩れや道路の陥没、水道管の破裂、屋根からの瓦の落下などの被害がないかどうかの確認を、2人一組で車に乗って20分ほど行いましたが、ほとんど被害がなかったようなのでそのまま市役所に帰ってきました。
その後、市役所の4階に上がると、非常用電源で、建設部道路公園課にあるテレビがついていました。
そのテレビに映し出されていたのが、自衛隊の人が撮ったという、閖上地区に津波が押し寄せる場面です。「あれ見て!」と言われて、これは大変だと感じました。
それまで大きい津波というものは私たちの意識にもありませんでしたし、経験したこともありませんでしたので、「この先どうなるのか」と話したことを覚えています。
発災当時から市役所が
避難所になったので、主に1階のロビー、3階、6階に避難場所を設定し、
避難者をそこに案内しました。夜になってからは、寒い時期だったので、毛布の支給などを行いました。それが震災当日の夕方6時くらいまでの私の行動です。
(高木様)
私は震災時には保健福祉部介護福祉課に所属していました。私は高崎班という現地班所属なのですけれども、私が出先から市役所に着いた時には発災から1時間近く経過していたため、現地班の人は全員もう出動していました。
そこで、車で現地班の集合場所である高崎集会所に行きました。最初に現地班長からの指示を受け、もう1人の職員と2名で高崎周辺の状況を確認していました。
その時に、住民の方が砂押川沿いの土手に沢山いたので、何事かと、そこに行ってみました。
ちょうど私が行った時には、津波の第一波が来て引いた頃でした。
普段の砂押川の水深は場所によっても違いますが、私のいたところだと、普段は大体足首、深くても膝くらいまでです。
しかし、その時は何メートルもある土手の高さの9割位まで水がきているような状況でした。
ちょうどそのときに、川下の方から徐々に水が増えてきたのが見えましたので、第二波か第三波か分からないのですが、また津波が来ているということがわかり、川を見ている市民の方に「すぐ避難してください」と職員2人で叫びました。
それからすぐ、高崎集会所に公用車で戻りました。距離的には大した距離ではないのですが、みんな一斉に高崎エリアなどの高いところに避難するので、その避難する人の車で道路が大渋滞になり、集会所に戻るのにだいぶ時間がかかったような感じがします。戻ってからしばらくして、高崎中学校に
避難者の方が集まってきているということで現地班もそちらに向かい、
避難所の開設業務が始まったというのが当日の流れです。
(遠藤様)
私は発災当時も現在も、市民経済部生活環境課に所属しています。発災直後は生活環境課におりまして、
トイレから戻り、自席につこうかというところで揺れが始まりました。
通常の地震よりかなり長かったので恐怖を感じました。いつもの地震とは異なる恐怖を感じました。昭和53年の宮城県沖地震以来です。
宮城県沖地震の時は、私はまだ20歳で、入庁して2年目で、防災の仕事をしていました。今でいう交通防災課の仕事をしていました。
ですから宮城県沖地震当時の記憶が蘇ってきました。当時、事務処理をすべて終えるのに2年くらいかかったことを覚えています。
今回、私は浮島班の現地班長だったので、班員が揃った時点で最初に浮島
公民館に行きました。そこに無線機などが置いてありましたので、着いてからすぐに
避難所の開設をしました。本来、その
地域の大規模災害時指定収容
避難所は城南小学校の体育館なのですが、浮島
公民館にも避難している方がいて、そのまま放ってはおけませんので、最初の1週間はそこにいました。
浮島には津波被害がなかったので、班員には地区内の建物の被害状況の調査をさせました。
その後、城南小学校に津波の被害に遭われた人達が地区外から次々入ってきたので、班員を半分に分け、片方は城南小学校、片方は浮島
公民館という配置にしました。浮島
公民館は1週間くらいで閉鎖して、その後は全員で城南小学校に詰めました。
津波被害
地域の状況は全然わかりませんでした。
震災当夜、浮島
公民館から海側の方を見ると空が真っ赤になっていたので、製油所で火災があったのだと思いました。浮島
公民館にテレビはあるのですが映らなかったので、津波の被害は後から知ったような気がします。
私自身が砂押川から南側の場所に足を踏み入れたのは、
避難所が閉鎖された1カ月以上後でしたので、4月下旬頃まで、実際の津波の被害は見ていませんでした。
ずっと
避難所詰めだったで、役所と
避難所、または
避難所と自宅の往復しかしていなかったのです。
実際に足を踏み入れたときは驚きました。
(聞き手)
避難所を城南小学校に統合したと聞きましたが、浮島
公民館に来ていた
避難者からは苦情は出ませんでしたか。また何人くらい来ていたのでしょうか。
(遠藤様)
苦情は出ました。浮島
公民館には3月15日の時点で38人がいました。段々と避難する人が増えていきましたので、浮島
公民館を閉鎖して城南小学校に移ってもらうということに決まりました。
早く知らせなければと思っていましたが、避難してきている方は、
公民館だと自宅から近いため、遠い所に移すとなると抵抗があるだろうとは思いました。
浮島地区の区長さんと一緒に説得にあたりましたが、中には城南小学校に行かずに家に帰る人もいました。
家は住めないような状態ではないのですが、
避難所にいれば食料が貰えるからという方が浮島
公民館にもいました。どこの
避難所でも同じだったと思います。